アイヌとクマ、大衆とAI

アイヌとクマ、大衆とAI

なまはげです。

最近、「ゴールデンカムイ」という漫画・アニメにハマりました。

ストーリーももちろん面白いのですが、アイヌ文化をきちんと調査してなるべく正確に反映している点がすごく好きな作品です。(祖父の影響で自分も詳しくはないのですがアイヌ文化は結構好きです)

この作品の中では「クマ」が一つのキーアイテムになっています。肉や毛皮で暮らしを助けるだけではなく、人を襲ったり時には殺してしまうことで物語を急展開させる役割を担っています。アイヌにとってクマが重要な神様であることは後存知の方も多いとは思いますが、ヒロインのアイヌの少女は

「クマは私たちに無理やり殺されるのではなく、腹をすかせた私たちの元に”殺されにやってくる”とアイヌは信じているのだ」

とアイヌの考え方について話します。この話に主人公は少し戸惑います。おそらく私を含め、ほとんどの読者が「なんだその考え方は!?」と違和感を覚えるかと思います。

ただ、私にはそれと近しい違和感に覚えがありました。

髭剃りやらエアコンやらの謳い文句にある「AI搭載」の宣伝文句を目にした時の違和感です。

AI、をどう定義するかにもよりますが、機械学習やディープラーニングをかじったことのある人間からすれば、アレはただのアルゴリズムです。おそらくほとんど「学習」していないものと思われます。

でもそんなものがAIとして持て囃され、購入されていく。この違和感に近いものがアイヌと我々の間にも横たわっているような気がしました。

 

なぜ、我々がアイヌの考え方に違和感を持つのか。

それはある意味で我々がクマのことを「科学的に」考えているからだと思います。クマは神ではなくネコ科の動物だ、自然淘汰が発生するから自ら身を差し出すなんてありえない、そんな感じの考え方です。

一方でアイヌにとってはそんなことは知りません。彼らにとって現実、そしてその受け止め方が全てです。

言い換えると我々は創造主的な観点、ディベロッパー観点でクマを見ているのに対し、アイヌは徹底してユーザー目線に立っているわけです。

 

これを先ほどのAIの話に持っていくと、大衆にとってはコンピューターに相対したときの感覚、現実こそが全てなのです。学習なんか知ったこっちゃあない。あくまでユーザー視点です。

その意味で大衆にとってのAIは

コンピューターが自分と同じ考え方をした時の驚きのこと

と定義できると思います。つまり、いい感じにひげを剃ってくれた時、いい感じにエアコン効かせてくれた時に大衆は「AIが入っている」と感動する、この感動こそがAIなのです。どんなアルゴリズムが入っているかとか究極的にはどうでもいいのです。

AIという技術はこれまでの技術と違い、「(ある程度)可塑的にものを認識し、生み出す」という道具の範疇を超えて人間の役割を代替する性質があります。(それは電子的なものに価値付けするブロックチェーンも同じ性質を持っています)

そのようなものはユーザー視点ではアイヌにとってのクマのように、人性ないしは多神教的な神性を与えられることが往往にしてあるということです。

そしてこのような観点は、一度AIの中身を知ってしまい開発者的な視座を手に入れてしまうとダーウィンの進化論を教えられた現代人よろしく、なかなかしっくりこないものなのです。