ホモ・デウスについて ひと・意識・アルゴリズム

ホモ・デウスについて ひと・意識・アルゴリズム

今日は話題の本である「ホモ・デウス」をようやく読み終わったので感想を書いていこうと思う。(要約は世の中に素晴らしいのがあるのでそちらを参考に)ただ、思ったことをつらつらと書いているだけなので本の本筋からは少し離れているかもしれない。

作者はヒトは共有された幻想によって「意味」を与えられてきた、と言う。古くは(そして現在も)人々に意味を与えたのは神であった。神はヒトを他の動物と切り離された特別なものとして意味を与え、儀式や生け贄などを通して人々を束縛するのと同時に人々に対してこの生は無駄ではないと、何かの意味が必ずあるとして意味を与えてきた。

だが、この意味に大きな危機が訪れる。神が死んだのだ。科学の発展はこの世、そして人間そのものがアルゴリズムの集合にすぎないことを看破した。それによって超自然的なものは人々に意味を与える権限を失った。

人間は逆転の発想で意味を与えることに成功した。人間の経験、考えそのものに対して意味を与えた。世界を解釈し変革していく人間のアルゴリズムそのものが至高のものであり、ゆえに人間そのものの経験や考えには平等に価値があり、尊重すべき存在である、と。

ここにおいて人間は人間そのものという巨大な意味のウェブを構築し、その中に全ての人を組み込んだ。

しかし、人間はこれを突き詰めすぎた。すなわち人間を超えるアルゴリズムを構築し、人間はその主導権を彼らに引き渡そうとしつつある。そしてこのアルゴリズムは人間をエンハンスさせ、あたかも神であるかのように振る舞わせる。主導権はデータ、そしてデータを用いたアルゴリズムが握っているのに。

それによって人が人に与えられる意味が危機に陥っている。我々は次の世界は何によってどんな意味を与えられるのか。

そもそも人間にはなぜ”意味”が必要なのだろうか。

人に対して意味を与えられなければ人間は社会として機能する事はできない。なぜならば個の利益と集団の利益は往往にして食い違い、社会とは集団の利益の最大化に他ならないからだ。

それならば。個の利益と集団の利益が完全に一致する世界が現れたとしたら?多くの個にとっての利益の最大化が集団の利益の最大化であり、それを個人が認識できるとしたら?もっと言えばその最適化を自明のものとして自動的に取捨選択するようになったら?

森羅万象から取得したあらゆるデータによって成立した人間を超越するアルゴリズム、それが意味する事はそういうことではないか?

アルゴリズムによって自明の行動を与えられ、それに自動的に従う。ここには意味の介在する余地はない。

いや、あると言えばある。アルゴリズムを古代の神に見立てれば、神の託宣に従うことと大差なく見え、アルゴリズムが人間に対して大義名分を与えているように見える。

しかし、そうではない。太古の人々は意味を神から与えられてから行動を選択する。牛を生贄にすれば雨が降る、だから牛を殺す、のように。しかしアルゴリズムに支配された人類はアルゴリズムと同期して動く。言い方を変えれば意味を与える神と同化してしまうのだ。そこでは意味には本質的に存在価値がない。全ては自明で選択の余地はなく、したがって意味は失われる。

もし、意識を「コンテキストに沿って価値判断を下すもの」と定義するならば、意味が消え去った時点で意識は消えて無くなる。なぜならばこの世界ではコンテキストそのものが存在しない、ないしは解釈不能であるからだ。

そもそも我々が意識を知覚するのは意味が存在するからだ。僕が何食わぬ顔で牛や豚を食い、シリアの難民のニュースを見ても何も思わないのは彼らに対して僕が意味を与えていないからだ。彼らの苦難に意味を与えた途端、僕は牛や豚の苦しい境遇に涙し、ヴィーガンになるかもしれない。シリアに何万円も募金をするかもしれない。

逆に人間は意味が与えられていないものに対して意識を知覚する事は難しいのだ。これはもしかしたら私自身に対してもそうであるかもしれない。そうであれば、100年後、私は私の生と死を解脱したインドの行者のように等価値のものとして認識できるかもしれない。もう私の私に対する意味は存在しないからだ。

僕の好きな小説に伊藤計劃という作家の「ハーモニー」という作品がある。主人公の親友であるミァハという少女は人類の脳みそにマイクロマシンを植え付け、自明な行動を取らせる事で人類の「ハーモニー」を目指す。この少女はもともと先天的に意識を持たなかったのを度重なる暴力を受けた末、意識を芽生えさせたのであった。自分に意識を植え付けた人間が憎いからハーモニーを目指すのかと訴える主人公にミァハは答える。

「人間を愛しており、だからこそ全てのものが自明でぼんやりとした幸福に包まれる意識のない世界に人類を誘うのだ。」

この進化をどう考えるかは各人の自由だ。少なくとも「人間至上主義」の価値観に生まれた僕は意識の喪失を損失として捉えてしまう。しかし、それを解放と捉えるならば、この流れに身を任せてもいい。虫酸が走るほど嫌いなのであれば、未来が決まる前に新しい社会の構築を目指さねばならない。まだ意識があるうちに。