“空”、そして”縁起”こそがワールドステートだ 仏教とEthereum

“空”、そして”縁起”こそがワールドステートだ 仏教とEthereum

なまはげです。

今日の話題は「仏教とEthereum」です。

何ゆうとるんや、という感じですが要は「Ethereumの定義するワールドステートは世界を縁起により成り立つと再定義することだ」ということです。

ちょっとだけ自分の思想的な背景も含めて説明したいと思います。

空、とは何か 縁起、とは何か

「空即是色、色即是空」というのは般若心経の有名な一説です。

僕なりの解釈ではありますが、意味としては「この世に私たちが実体と思っているものは存在しない。ただ不変かつ普遍のものがあるだけである。だからと言って実体が全く存在しないわけではなく、不変で普遍のものもまた、実体として我々の前に姿を表すのだ。」という意味です。言い換えると「実体と実体が全く存在しないという極端な立場ではなく、そのどちらも受け入れ、普遍で不変のものを見つめるのだ(この考え方を「中道」と言います)」という感じです。

僕は大乗仏教はあまり詳しくないのですが、この考え方自体は仏教、ひいては古代インドのヨーガ行者たちが目指した境地について述べたもので大乗仏教独自のものではありません。

では実体が実体によって定義されないのであれば何によって定義されるのでしょうか。

それが「縁起」です。「縁起」というのは主体同士の関係性のことを表しています。全ての実体は独立して存在しているのではなく他の実体との関係性や因果によって成立しているという考え方です。それにより実体が存在しなくとも実体は存在する、という考え方をします。

解脱、という境地はこの縁起の糸の絡まりから逃れ、ただこの「不変で不変なもの」を直視する境地のことをさします。

この記事では説明に空とか縁起とかの大乗仏教の用語を用いますが、僕がそちらにはあまり明るくないこともあり(どちらかというと古代インド哲学への関心が強いです)必ずしも仏教の言葉の定義そのままではないです。

縁起とは、原始的な世界の定義

ここまでの話は非常に宗教くさく、人によってはアレルギーを催すものだと思います。

ただ、この縁起の考え方、非常に原始的な狩猟生活をしている人々に近い考え方です。彼らは人間と他のものを区別をほとんど区別しませんでした。鹿が話しかける、風が夕食を食べる(夕凪のことをこう表現するイヌイットがいるそうです)といった発言は比喩ではなく、彼らの世界そのものでした。

狩猟採集を主とする民族にとって、今のように自然と支配-被支配関係は成立していません。よって彼らにとっては全てのものは同一であり、自らを中心として考えるのではなく、自らもその同一のものの一つとして周りのものとの関係性や因果関係の中で生きているという感覚を共有しながら生活していました。

ワールドステートと縁起

さて、Ethereum上にある実体(ネコとかブタとかゾンビとか英雄とかスマートコントラクトとか)はどのように存在しているのでしょうか。それは実体同士の「関係性」や「因果」によって存在しています。

要素として散らばっているパブリックキーから生成されたアドレスとそこから生成されたスマートコントラクト、そして各トランザクションの関係性によってEthereumのステートが成立し、そのステートの文脈の中にEthereum上の実体は成立しています。

そしてそのステートは遍く世界に共通のものとして存在し、このEthereumのステートの網から逃れて成立しているEthereum上の実体は一つも存在していません。ステートは、文脈は勝手に変更することは許されません。これは「縁起」そのものを体現したものと言えます。

また、全ての実体はEthereumという普遍の(そして将来的には不変になる)プロトコルがステートという文脈によって変化して我々の手に渡っている。つまり、あらゆる実体に変化しうるEthereumというプロトコルが「普遍で不変のもの(アートマン、とかいったりします)」と考えることができます。(これはチューリング完全なブロックチェーンであるEthereumだからこそです。

蜘蛛の糸を見通せる世界

この世界は割と複雑です。

あらゆる因果が複雑かつもう分析不可能なものがたくさんあり、中には意図的に因果をないものとして扱う・扱わせることがはびこっています。それがかえって実体を独立に存在しているものとして考えさせ、執着をうむ世界観です。

言い換えると「人間が共同で人間を檻に押し込む世界」とも言えます。

Ethereumがどんな効果をうむのかはまだわかりません。ただ、現在誕生しようとしているものは、普遍のプロトコルの変化によって生まれる実体同士の因果の糸を見通す、少なくとも分析可能で証明可能なものとして残し、人間の自由度を高め社会をより高める可能性のあるものと考えています。

上記の解脱の文脈で言えば、縁起の糸を見せることでその絡まりから逃れさせるわけではないが、より高次の視点を提供しうるものということができます。