学生にとっての東大と社会にとっての東大 〜上野千鶴子氏から考える〜

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田原です。
今回は東京大学の入学式での上野千鶴子氏の「祝辞」が波紋を呼びました。

端的に言えば僕は非常に強い憤りを感じたのですが、ツイッターとかFacebookを見ると擁護というか支持する声が多くてびっくりしました。その意見は「東大生はこれくらい言われた方がいい」という反知性主義的な発言から、「素晴らしいお言葉」や「これを批判する人は人としてあり得ない」みたいに千差万別です。

これを見ていて、少し違和感がありました。

「あれ、入学式ってなんなんやろな。」

と。

どうやら東大生である自分が捉える「東大」と社会が捉える「東大」に大きな違いがあるのではないかと思いましたのでここに書き記そうと思います。

なぜ僕は怒るのか

上野氏の行っていることはほとんど正しいと思いますし、文章としても練り上げられていると思います。

というかこの記事は主義主張をいうための記事じゃないんで中身の議論はなるべくしません。というか中身に関しては75%くらいいいこと言ってんな、って感じです。

ただ、それはこれが授業とか講演会とかブログとかで言われた時の話。

これ、どう考えても「祝辞」じゃないですよね。僕がキレてるのは以下の二点です。

1.主役である新入生へのリスペクトがない

これは入学式の「祝辞」です。デジタル大辞泉によると祝辞とは「祝いの言葉」だそうです。まあ読んで字のごとくです。今回は誰が祝われるべきか。当然、新入生全員等しく祝われるべきでしょう。

じゃあ、想像してください。自分の結婚式のスピーチで会社の上司が

「結婚おめでとう。それはそうと最近仕事で調子乗ってんな。お前。もっと我が社のために働けよ。」

って言ったらどうします?キレるでしょ?人としてあり得ないでしょ?

特に今回はいろんな主義思想を持った人がいます。こうした人々に不快感を与える可能性のあるスピーチははっきり言ってクソです。💩💩

実際会場は静まり返り、ヒエッヒエだったと言います。当然ですよね。

2.入学式を「議論の場」としてしか見ていない

そもそも祝辞で議論が巻き起こることそれそのものがおかしいのです。

新入生にとっては東大の入学式はあくまで「入学式」です。それ以上でもそれ以下でもない。

ただし上野氏はおそらく、この「東大の入学式」という特大インパクトをもつ一大コンテンツとして社会に議論の火種を撒こうとしたと思います。そしてその思惑通り、議論が巻き起こり、僕もこうして乗せられてセコセコ記事を書いてるわけです。

その議論自体の正邪は問いません。

でもその「下敷き」となった東大の新入生、この場に立った東大の総長などの人々が僕には可哀想に思えてきます。と同時に大学院の入学式をブッチしてラーメン食いにいってよかったと思いました笑

東大生にとっての東大

学校です。それ以上でもそれ以下でもない。

ここで遊び、恋愛し、学び、研究する場です。当然ですね。あくまでも大学の一つです。

もちろん入学するときには東大に特別な意識を持って勉学に励んだと思いますが。それでもやっぱり東大はただの学校なのです。

社会にとっての東大

社会にとって東大とは具体的な学校ではなく一種のシンボル・記号であるように思います。

社会のエリートの集団を表す記号。

それは大きなシンボルとしてのインパクトを持って社会の人々に受け取られます。そのため、そのシンボルに包含された概念である「東大生」は一個の血の通った人物というよりも一つの抽象として様々なイメージが有る事無い事語られます。

この考え方はどの組織でもなされがち(例えば「銀行員は〜」みたいな)ですが、ここまで無法地帯のように認識されているシンボルもなかなかないでしょう。

最近流行っている東大の番組は「東大というシンボル」があるから面白いのです。あるいは暴行事件も「東大生というシンボルがあるから」ここまで騒がれたのです。

同様に東大の入学式も、学生の一人一人の区切りや祝いの席という具体的なイメージよりも、「東大というシンボルの中での一つの入学式という記号」というひどく無機質なものとして捕らえられ、それを議論の場、きつい言い方をすればツイッターやフェイスブックのような使い方をしても大丈夫と思われている節があります。

でも考えてください。入学式は祝いの場です。ここでは新入生は等しく祝われるべきでしょう?

議論の正邪ではなく、まずはその議論のエサにされ、下敷きにされた新入生がいるということを考えてください。

上野氏は元東大の教員でありながら、そこをおそらく承知の上で社会に議論の種をまくことを優先されたのでしょう。それは上野氏の判断ですが、僕はこれは間違った行為であると思っています。