負債論を読んでみた3 〜第6章から第7章〜 奴隷と負債

負債論を読んでみた3 〜第6章から第7章〜 奴隷と負債

こんにちはなまはげです。

前回の記事と今回の記事では、負債という「人間関係の在り方」を通して負債の本質や社会の本質を探っていきます。さて、前々回までは内容が優しかったのでデスマス調でかけたのですが、前回からきつくなってきたので今回から本文はである調で統一します。ご了承ください。

めっちゃ難しいのでよくわかんねえって場合は最後のとこだけ見てください!

第6章 性と死のゲーム

奥さん!!聞きました?生ではなく”性”ですよ!!!

こりゃあ、興奮しますね。間違いない。

…とかいうふざけた話ではなく、「元来、平等な人間はどのような状況で取引される存在なのか」、すなわち負債懲役人としての売春(今だに存在する)や処刑はどれくらい妥当なのか、そもそも人間社会では人に値段をつけられるのか、これが焦点になる章だ。つまり、ただの「義務」が「負債」としてカウントされる瞬間についての考察である。

この際、我々は歴史的には短い期間しか存在していない「商業経済」を当たり前のものとして考えてはいけない。これを基準とすると前回までの「アダムスミスの誤り」を犯してしまう。そうではなく、「人間経済」、すなわち人間関係に最も関心が払われる経済圏について考えるべきだろう。

まず、人間経済での通貨の役割とはなんなのか。この通貨は社会的通貨といって人間関係の維持や測定に用いられる。もっともわかりやすい通貨の使い場所は結婚の際の新郎側が新婦側に渡す金銭である。これは見方を変えると売春のようである。しかし、実際に起きていることは「貨幣を送ることは花嫁を獲得した代償の一時的な支払いにすぎず、本質的には貨幣ではその負債を返済できない」のである。この嫁を娶る負債は「別の女性を嫁がせる」ことでしか償えない。つまり、人の負債は人でしか支払えないのだ。同じく人の負債である殺人に対しても返済は人でしか不可能だ。ある部族では、殺人の被害者側に加害者側が女性を送り、その子供を殺人の被害者の生まれ変わりとして扱うという。

ここで明らかにしたいのは本来的に人間の負債の返済は、人間(特に若い女性、なぜなら子を産むことで返済できるから)でしかできないということだ。それゆえ、「人間の負債をおったときのために周りの人間を抵当(≒人質というコマ)に入れる」ということが基本になった。

しかしその一方で人が通貨で売り買いできる瞬間があった。一つは暴力が絡むとき。もう一つは他国からさらった奴隷、すなわち人間経済圏で他の人間との関係性から切り離された人間を対象とするときである。

人質に入れるという習慣と、暴力・奴隷のシステムが重なるとどうなるか。すなわち、抵当に入れた人間が暴力によって経済圏内の関係性を剥奪された場合だ。これは立派な「商品」であり、商業経済がここに入り込むと夫妻による奴隷制が完成する。この章では西洋(奴隷貿易)により商業経済が一気に入り込み、ラディカルに変化したアフリカを例にとってこのことを証明した。

他の地域、緩やかに商業経済が現れた社会ではこのことが具体的にどのようなメカニズムで起きていたのかが次章のテーマになる。

第7章 名誉と不名誉 あるいは、現代文明の基盤について

この章では貨幣(そして商業経済的な負債)の起源に関係があるものとして奴隷、そして名誉について述べている。

奴隷とは前章の通り、「人間経済圏で”剥奪された”存在」である。そしてこの奴隷の剥奪された人間存在はどこに行くのか。主人の「名誉の基盤」となるのである。つまり、剥奪された奴隷の名誉は主人の名誉として「貯金」されるのだ。そして人間経済圏では特に名誉が重んじられ(私のようなゲームヲタク的には北欧神話の世界を想像するとわかりやすい)、その名誉は取引可能なものとされた。アイルランドではその名誉の取引には「少女奴隷」が”貨幣”として使われたという。つまり、王様などの名誉を傷つけるとその負債の返済に奴隷の人間存在を与える必要があったのだ。

さて、このように社会的貨幣として扱われてきた人間(奴隷)であるが、商業経済の導入によって「貨幣でなんでも買える」状態になるとどのようなことが発生するのか。端的に言うと結婚の際の名誉の調整に当てられてきたもので売春婦が買える、という自己矛盾が発生するのだ。ギリシャの詩人アルキロコスは商業経済での貨幣をポルノイ(売春婦)に例えた。すなわち万人に届く存在であり、それゆえ手を出しては名誉が傷つく。しかし魅了されてしまう、欲しくなってしまう、というのだ。

筆者はこれを「欲望の民主化」と言っている。これの怖いところはまず自らの欲望を制御できない点である。そして他者もまた民主化された欲望を持つということだ。すなわち他者の欲望に従属せざるを得なくなる可能性が出てくるということだ。(他社の欲望に支配された存在が売春婦である)このことはあらゆる面を変えた。

メソポタミアでは基本的に家族を売り飛ばすことはできなかったが、負債を返せない場合は別だった。そうなると男たちは他者の欲望から女性の処女性を守るべく、女性を世の中から隠すようになる。それが家父長制の原点であり、初期メソポタミアでのジェンダー間の平等が崩れた原因の一つでもある。また、従来の人間経済圏では名誉=信用であり、互酬性を伴う経済取引は名誉の取引であり、目的は名誉の保持であった。しかし、経済取引でなんでも買えてしまう商業貨幣はそれを徐々に不誠実な策略の手段に変え、農村のあり方やヒエラルキー組織のあり方も互酬性の枠組みに入れてしまった。そして所有のあり方もかえた。従来は個別のモノと人の関連だった所有関係は、文脈を剥奪されたモノと所有者の奴隷関係として定義され、モノは所有者の奴隷であるから所有するモノをなんでも自由に扱えるようになる。

逆に自由である、とは奴隷でない状態を指すようになり、翻って私、というものが私自身に奴隷として従属しているものを指すようになった(これがローマ法)

まとめます。

このように人間経済では、社会的通貨は人間関係や名誉を調整・測定する手段にすぎず、人間の命は人間でしかあがなえず、そもそも各人の持つ社会的文脈は人それぞれ固有なので人間は本質的に代替不可能な存在である。

しかし一方で、人間を人間で贖うための「人質」が存在したり、例外的に暴力や奴隷制によって社会的文脈を剥奪された存在は売り買いができた。

ここで社会的通貨がなんでも買える商業貨幣になると何が起こるか。人々はあらゆる欲望を持つことを許され(強制され)ると同時に、暴力や奴隷制に積極的に組み込まれながら社会的文脈を剥奪されてしまう存在になる。このことによって女性は処女性を守るため隔離されたり、所有のあり方、コミュニティのあり方などが脱文脈化してしまうのである。その媒介となるのが負債である。

 

ふう。疲れました。めちゃめちゃむずいっす。こんなむずいの誰が読んでくれるんだ。