負債論を読んでみた2 〜3章から5章〜 原初的負債と人間社会の類型

負債論を読んでみた2 〜3章から5章〜 原初的負債と人間社会の類型

負債論、どんどん見ていきましょう!

3章から8章まではとりあえずダイジェスト的に見ていきます。この6章分で言いたいことは主に「人間社会の本質は何か」ということです。そこまで負債というものにはこだわらず、様々な社会(主に市場経済化されていない社会)を対象に人間社会の関係性が成り立っているか、ということを丁寧に解剖しています。(正直この辺はわかりにくいです)

第3章

第3章は原初的負債、つまり「人間は生まれながらにして負債を負っているのか?」という疑問に答えていきます。多くの宗教や規範では、「子供は親孝行しなければいけない」とか「人間は生まれながらに罪を負っている」とか「社会に生かされているのだから周りの人には親切にすべきだ。」といった言葉が言われます。こうした言葉は、人間は生まれながらに様々な負債を背負っており、人生の中でその返済を行わなければならないという印象を与えます。そもそも、人間は人間を生み出す宇宙それそのものに対して誕生という負債を背負っていると考え、それゆえ社会に対して負債を有しているという考えることもできます。

そういった考え方によって様々な事象を説明する主義主張を持つ主に近代以降の学者のことをこの本では「原初負債論者」と呼んでいます。さて、彼らの説明によると究極的には生という負債は死によってのみ贖われる、と考えられているとしています。その「利子」として動物の命などの生贄を捧げるのです。

また、税金に対しても「社会に生かされているという負債の返済」という位置付けを行なっています。(そもそも通貨の発行者が支配者なら、自分が発行したものを税として回収する必要性はない)そしてその社会に対しての絶対的負債の返済手段としてのリアルマネーが想像されたと主張します。

 

しかし、筆者はこの原初負債論(特に社会に対する負債を返済すべきという論法)に対して異議を唱えます。

まず最初に、そもそも社会(特に国家)とはそれほど歴史上(特に近代ナショナリズム以前)意識される境界線ではなく、曖昧な境界線であるということ。そう考えるならば、我々は誰に負債を負っているのでしょうか? そしてどうやってそれを返済すれば返済したことになるのでしょうか。そもそも返済方法や返済先を強制できる存在はあるのでしょうか?

原初負債論的には根本は我々は宇宙に負債を負ってますから、そういった強制する存在(あるいは負債を負っている相手)は宇宙を「代表する」存在です。そんな存在は少なくとも「社会」などという自然界には存在しない単位ではありえないことは明らかです。

つまり、原初負債論者は、近代以降の我々が意識する「社会」という概念をあたかも過去の全員がそれを中心に生きていたかのように語ることで、想像された”神話”にすぎないのです。国家などの社会に負債による帰依を迫る点でこれは「究極のナショナリズム」と考えられる。

よく我々は原初負債論的な国家の論理(決して返済できない負債を国家に負っているという考え方)と市場の論理(自由な取引スペース)を相いれないものとして語るが、その二つは互いを必要としあう本質的に近しいものであり、歴史的な人間社会の本質はそこには存しないのです。(ただ、そのような考え方は考え方として現代の市場中心的な社会の中で息づいている)

第4章

ここでは「残酷さと贖い」という題名でニーチェなどを引用しながら「残酷さ」や「贖い」についてさらなる考察を行なっています。

ニーチェは「道徳の系譜学」という本の中で「もし人間がアダム・スミスがいうように利益の最大化を目指して商交換を行う合理的存在」だった場合、どのようなことが起こるかについて述べています。これによるとどのような商業システムでも債務者と債権者が存在し、それによってモラルや罪責性が生まれ、借りを返せない債務者は債務に応じて債権者に肉体の自由(指を切り取る、など)を奪われることになるというのです。

このことはショッキングですが、アダム・スミスが考えているような人間観(すなわち市場中心的な社会観)にたんを発する”狂った仮定”を想定すると当然のこととなります。エスキモーにはこのような言葉があるといいます。「贈与は奴隷を作り、鞭は犬を作る。」 あるエスキモー人はそう言って助けられたことの礼を言ったヨーロッパ人を叱ったといいます。

またこの連鎖によって我々は先祖に負債を有していることになり、先祖は債権者になり、やがて神に等しい存在になります。ニーチェによるとキリスト教のすごいところは神である(債権者)キリストが人々(債務者)の犠牲になることによって救済を与えるということだとしています。

このことは「贖い・救済」について興味深い考察だとしています。救済を意味するredeemはそもそも借金のカタを取り返すことでした。また、同じようにヘブライ語の「救済」を意味する語もそのような語源を持ってます。メソポタミアでは王が交代するときには借金を帳消しにしていました。そして借金のカタとなった家族や土地を取り戻させていました。しかしこのように借金のカタとなった人々の自由を取り戻させる運動が起こる一方で、奴隷制にはそのような異論はほとんど沸き起こりませんでした。その根拠の一つは奴隷と異なり負債はカースト的には平等の者同士が行う取引であるという点に起因します。

このことは(ニーチェが述べたこととは違い)債務者(および家族)の肉体の自由を奪うことはモラル的に疑問が呈されていたことになります。一体なんで平等なはずなのに負債によって酷い仕打ちが可能になるのか。

第5章

ここでは負債とモラルの関係性を整理するために「モラルは全て負債(交換)に基盤を置く」という仮定を置いてみて、それが正しくないことを証明し、モラルは負債以外の人間性の基礎に基盤を置くということを証明します。

よくあることとして人間性の基盤は全て「互酬性の原則」にあるとする考え方がある。貸しに対するお返しを期待してあらゆる人間関係が構築されるという考え方だ。しかしこの考え方はかなり多くの反例が見つかってしまい、それが絶対的なものではないとわかる。

そこで筆者は「コミュニズム・交換・ヒエラルキー」の三つが基盤になりうると語ります。

コミュニズムとは「各人が己の能力にあった行いをし、みんなが欲しいときにその恩恵を被ることができる」というものです。一見すると互酬性が原理にあるように見えますが、その原理は実は「効率」にあります。つまり、等価性を気にしないやりとり、というわけです。これはかなり効率がいいことが示されており、実際、災害時にはコミュニズム的な社会が形成されたり、資源が少ないベンチャー企業はフラットなコミュニズム的な企業を作ります。

一方交換は「等価性に関するやり取りの全て」と解釈できます。等価性にもっとも重きを置き、その過程の暴力や暴言なども交換の一環として捉えることができます。等価であることが成立すれば関係性を解消でき、負債をチャラにしたり、あるいは贈り物に完全に等価なものをお返しすることは「関係性を断ち切りたい」ことの表れとしてマナー違反とする社会もあります。また、物品だけではなく交換に参加した人同士の等価性も成立する為、王など権力者が嫌がる傾向があります(朝貢など)。

三つ目はヒエラルキーです。これは一方的に奪ったりすることができる関係性で、はっきり引かれた優劣の線が存在していることが条件になります。(多くの社会では、税の代わりに領主が守るなど互酬性で正当化されているので注意)その上で、その奪う行為が慣習的になるとただ一方的に奪われる、交換(互酬性)とは真逆の関係性になります。

我々の住んでいる世界ではこの三つが同時に存在しています。また、この3つが互いに変化していきます。(エスキモーなどコミュニズム的組織ではヒエラルキー組織に転化しないための社会的防御策が張ってある)

そう考えると負債は基本的には互酬性を基本とした交換として捉えられますが、債務者が返済できないとたやすくヒエラルキーへと転化し、その状態が続くと慣例として常に搾取されるようになるのです。特に贈与などの自身を誇示したりする競争での敗北や、居候状態の継続など返済不可能な「名誉の負債」では大きな問題となります。

 

 

今日はここまで。